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あけましておめでとうございます
6年生は、正月特訓に過去問に…と勉強一色ですが、まだ受験学年になっていないと
「ウチの子、こんな状態で本当に入試なんて迎えられるのかしら…」
と不安に思われているご家庭も多いのではないでしょうか。
でも、目の色が変わろうと変わるまいと、中学受験にチャレンジできる環境にいられる小学生はとても恵まれていると思います。
親が無理やりやらせている、小学生の許容量を超えている――など、中学受験が「教育虐待」に陥りやすい側面を持つのは確かです。
一方で、コロナ禍の休校中は“学びたくても学べない”“何をすれば良いかわからない”といった状態で漫然と日々が過ぎた沢山の小学生がいました。
しかし、中学受験を視野に入れているご家庭は違います。
家庭の中に「勉強テキストがあること」「学習環境が整備されていること」、何より親が「学ぶこと」に価値を置いて手間もお金もかけたことを子どもは見ています。
世の中をより良くするための学問
その「学ぶこと」について、ご家庭でどのような“価値観”を共有されていますでしょうか。
福沢諭吉は、『学問のすすめ』の中でこう説いています(安浪の加筆注釈入り)。
学問には2つのレベルがある。
1つ目は、一個人としての学問(=勉強して志望校に合格する)。
これは衣食住の満足を得る、蟻と同じ。
万物の霊長たる人間として、学問の目的を達したとはいえない。
自分さえ良ければいいという考えは、ただ生まれて死ぬだけのことである。
2つ目は、社会の中で世に活かすための学問。
昔から能力のある人間は、心身を労して世の中のために事を成してきた。
彼らは衣食住が豊かなこと程度で満足などせず、社会的な義務を重んじて、高い理想を持っていた。
この世の中に生を受けた以上、自分の生きた証を残して、これを長く後世の子孫に伝えることは重大な任務である。
学問とは「学んで問う(自分で疑問を見つけ、新しい発見をする)」ことであり、今の我々の生活は、昔の人々の「学問」の上に成り立っている。
学問とは自分自身のためではなく、世の中をより良くするためにある。
中学入試の渦中にいると、どうしても「ここさえ乗り切れば」「最低このレベルに合格できれば」となり、視野が非常に狭くなります。
でも、学問の2つ目のレベルに目を向けると「やらされている/やらねばならない/ただ辛いだけ」の受験勉強が、もっと大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。
そこまで思いをはせる余裕がないのが現状とも思いますが、中学受験の勉強を進めていくにあたり、ぜひ一度、この諭吉翁の言葉をご家族で共有して頂けたらと思います。